音響やオーディオ技術に関する専門用語、音響やオーディオの研究開発において必須な物理、数学等の学問で用いられる用語、音響やオーディオ技術のトレンドとして注目している技術に関する用語などを紹介します。
キーワード:アクティブノイズキャンセリング、デジタル信号処理、デジタルフィルタ
最近は低価格帯の完全ワイヤレスイヤホンでも搭載されるようになり、広く認知されるようになったノイズキャンセリング技術。
理屈は非常にシンプル、でも奥が深く、今後も発展の期待ができる技術です。
実は、私が音・信号処理・空間音響に興味を持つきっかけとなったのが、このノイズキャンセリング技術です。
大学時代の研究室紹介で、ノイズキャンセリング技術のデモを見せていただいたのですが、 指定された空間に頭を突っ込むと、それまで聞こえていた音がピタッと消えて、 「こんな魔法のようなことができるのか!」と、かなり衝撃を受けたのを今でも覚えています。
でも、実際にZE8000でノイズキャンセリングの設計を行うと、そう簡単にうまくは行かず、 さまざまな制約の中で試行錯誤して性能を高めていく必要があるということを実感しました。
地道な作業こそ必要で、開発を行う上で得られたノウハウや知見が積み重なってこその技術だと私は改めて感じました。
そんなノイズキャンセリングについて、技術開発を先の時代に進めていくためには正しく内容を理解することが重要だと考えています。
・パッシブとアクティブの違い
雑音を抑圧するノイズキャンセリング技術には大きく2つの種類があります。
一つはパッシブで、もう一つはアクティブです。
<パッシブノイズキャンセリング>
簡単にいうと雑音の侵入を遮断する方法で、耳栓効果とも呼ばれます。
ヘッドホンやカナル型イヤホンによる物理的な密閉により遮音効果を高めます。
単純に騒音を遮断するだけ?と思われますが、その効果は非常に高く、しっかりと設計を行えば、それだけで十分な騒音の抑圧になります。
主に、中域〜高域の騒音を抑圧することができます。
<アクティブノイズキャンセリング>
侵入してきた雑音をデジタル信号処理により消す方法です。
一般的にはANCと略されて呼ばれることが多いです。
イヤホンやヘッドホンに装着されたマイクロホンで雑音を収音して、その音信号と逆位相の音信号を生成し、加算することで、雑音を消す仕組みを利用しています。
仕組みはいたってシンプルですが、雑音を収音するマイクロホンの性能や、収音した音信号に適用するデジタルフィルタによって効果が変わるため、高いレベルの技術が必要となります。
イヤホンやヘッドホンを装着して、騒音が大きな環境(例えば電車の中や、車が行き交う道路の近くなど)で音楽を聴くと、外部の騒音の影響で音楽が聴きづらくなります。この騒音を抑制する目的でアクティブノイズキャンセリングが利用されています。本文では雑音と表記していますが、具体的には騒音を意味します。
・逆位相の波で打ち消す原理
仕組みとしては至ってシンプルです。
まず、音というのは空気中に圧力変化が生じることで伝搬する波です。
その音波に180°反対の逆位相の音波を重ね合わせることで、図のように音を消すことができます。
これがノイズキャンセリングの原理です。
(図1) 音波の重ね合わせによる消音
・ANCの方式
アクティブノイズキャンセリング(ANC)には主に3つの方式があります。
フィードフォワード方式、フィードバック方式、ハイブリッド方式です。
それぞれ特徴を説明します。
<フィードフォワード方式>
ヘッドホンの外側にマイクロホンを設置し、そのマイクロホンで外部の音を収音し、雑音除去を行います。
フィードフォワード方式の特徴は、広い帯域で雑音を浅く除去することができる点です。
音楽信号への影響という観点ですと、フィードフォワード方式は、外部の雑音を収音して逆位相の信号を加算して雑音除去をしているだけなので、音楽信号に対しては原理的に影響を及ぼしません。
雑音を除去する信号は、外部の雑音に対してデジタルフィルタを適用することで生成します。
このデジタルフィルタは、イヤホンを装着した状態で雑音源から鼓膜位置までの伝達関数と、イヤホンを装着マイクロホンをONにした状態で雑音源から鼓膜位置までの伝達関数の差分を算出して設計を行います。
伝達関数を測定する治具とその精度によって伝達関数が大きく変わります。
そもそもデジタルフィルタの設計ができない場合もあるので、注意が必要です。
また、設計自体はできるが、聴感上の効果を感じられない場合もあります。
さらに、デジタルフィルタの種類や処理量に制約がある場合があります。
伝達関数から算出されたフィルタに対してリソースに応じた近似が必要な場合、雑音源からマイクロホンまでの伝達関数を正確に測定したとしても、この近似によりフィルタ特性が変化してしまうと雑音除去の性能も大きく変わってしまうため、注意が必要です。
治具製作から伝達関数の測定、デジタルフィルタ設計までを何度もやり直して、精度を高めていく、粘り強さも必要です。
(図2-1) フィードフォワード方式の仕組み
(図2-2) フィードフォワード方式による雑音抑圧の特徴 [横軸:周波数、縦軸:ゲイン]
<フィードバック方式>
ヘッドホンの内部にマイクロホンを設置し、外からの音が漏れこんで鼓膜に到達する状態を観測して、雑音除去を行います。
フィードバック方式の特徴は、鼓膜に近い場所にマイクロホンを配置し、鼓膜に到達する雑音を正確に収音することでより正確な伝達関数の測定が出来るため、低域までより深く雑音を除去することができます。
音楽信号への影響という観点だと、フィードバック方式は、再生音も収音して雑音除去処理をするため、音楽の低音が減衰してしまいます。
そこで、音楽信号の低域を事前にその減衰分だけ持ち上げておく必要があります。これにより、SN比が悪くなったり、音質への悪影響が生じてしまいます。
また、実際には鼓膜の位置にマイクを配置するのは極めて困難なため、観測点での測定誤差が生じて雑音除去性能に影響する場合があります。
そのため、開発ではターゲットとなる筐体で特性を測定し、デジタルフィルターの係数やゲイン値を調整していくことが必要となります。
このパラメータ調整によって、雑音除去性能と音楽の品質が大きく変わるため、何度もやり直して精度を高めていく必要があります。
(図3-1) フィードバック方式の仕組み
(図3-2) フィードバック方式による雑音抑圧の特徴 [横軸:周波数、縦軸:ゲイン]
<ハイブリッド方式>
フィードフォワード方式とフィードバック方式を合わせることで両方の特徴を活かすことができるのが、ハイブリッド方式です。
ただ、外部と内部の両方にマイクロホンを設置する必要があるために、マイクロホンの数が増えてしまいます。さらに、マイクロホンの設置場所を考慮する必要があるため、筐体設計に影響を及ぼします。
音楽信号への影響や実際に設計する時の注意点は、上記2つの方式で記載したことと同様となります。
フィードフォワード方式とフィードバック方式の2つを同時に成立させる必要があるので、設計の難易度は高いです。
(図4-1) ハイブリッド方式の仕組み
(図4-2) ハイブリッド方式による雑音抑圧の特徴 [横軸:周波数、縦軸:ゲイン]
・実際のANC設計
ワイヤレスイヤホンやワイヤレスヘッドホンでは、マイクロホンで収音し、ANC用デジタルフィルターを通して、ドライバーユニットから信号を出力するのが基本構成です。
マイクロホンの個数や性能、ドライバーユニットと筐体設計、デジタルフィルター設計、フィルタ設計用の測定治具、ゲインチューニング、などさまざまな要素があり、求める効果や性能に応じて、これらを決めていく必要があります。
もう一つ、IC構成も重要です。
最終的にドライバーユニットから出力する信号は、「再生信号+雑音を打ち消す信号」となります。Bluetooth経由でスマートホンから再生信号を受けるのと同時に、雑音を打ち消す信号を生成できれば、1つのチップで完結させることができます。
これにより、回路面積の縮小が実現でき、小型化が可能となります。
あるいは、別の方法としては、Bluetooth ICとは別にANC専用ICを追加することも考えられます。
回路面積が大きくなり、消費電力も増えますが、性能を高めることが可能となります。
このように、ANCの性能だけを考慮すれば良いわけではなく、商品コンセプトによって、 回路面積やマイクロホンの設置場所や個数やドライバーユニットを決定し、総合的に構成を決めていく必要があります。
ZE8000では、イヤホンの外側に配置したマイクロホンで収音し、Bluetooth IC内部でANCデジタルフィルタを適用し、雑音を打ち消す信号を生成し、再生信号と一緒にドライバーユニットから信号出力する構成を採用しています。音楽再生を最優先に考え、音楽信号に影響を及ぼさないフィードフォワード方式を選択しています。また、回路面積を極力小さくするために、Bluetooth IC内部でANC処理を行っています。フィルター設計用の測定治具については自作をし、試行錯誤を重ねて、圧迫感のない自然なANC効果を実現しています。
(図5) ZE8000 内部構造
・マーケティングとしての数値性能と測定システム
ANCが搭載されたイヤホンにおいて、ANCの性能として「最大**dB」などと表記されているのを見たことはありませんか?
あるいは、数値性能が良いANCイヤホンを購入して、あれ?思ったほどでもないな?と感じたことはありませんか?
「最大**dB」という数値は、マーケティングの一つの要素として使われています。
つまり、商品の価値をわかりやすく伝えるための指標です。
数値が高いほど雑音抑圧性能が高いと謳われているわけですが、この数値の意味について正しく理解する必要があります。
まず、この数値は「ある周波数におけるピークの値」を表した数値です。
言い換えると、特定周波数の純音を再生した時に出る性能の最大値となります。
でも、考えてみてください。そもそも純音の雑音環境は実際にはあまりありません。
つまり、この数値が良いからといって、実際の雑音環境下で聴感上の効果が高いとは必ずしも言えないのです。
ANCの価値を伝えるための指標として、端的でわかりやすいということでこのような表記がされているのが実状です。
(図6) マーケティングとしてのANCの数値性能
それでは、雑音抑圧性能を正しく評価するためにはどんな測定をすべきなのか?
雑音抑圧性能を物理量で測定および評価する方法は、JEITAでRC-8142A[12]として規定されています。
測定環境については、各測定点での音響エネルギーが均一で、かつ音響エネルギーの流れが、すべての点ですべての方向に等確率である拡散音場が必須となっています。
しかし、こういった特殊な環境下で測定することは容易ではありません。
そして、仮に上記条件で測定できたとしても、その評価指標が人の聴感印象と合致しているかはわかりません。
我々は、「聴感印象に合致した評価指標とは何か?」「雑音抑圧性能を正しく測定するためにはどうすれば良いのか?」を日夜考えています。
聴感印象に合致した評価指標を用いることで、お客様に正しい理解をしてほしいという想いがあるからです。
そして、この正しい理解が、イヤホンやヘッドホンの技術開発を先の時代に進めていくために重要だと考えているからです。
(図7) 特性測定システム例 [出典:JEITA RC-8142A]
・今後のANCについて
最近では、周囲の雑音に応じてノイズキャンセルの適用量を変化させるアダプティブANC技術が登場し、環境に最適なノイズキャンセリングが実現可能となりました。また、シーンに合わせてパラメータの異なるノイズキャンセリングをプリセットから選択できるイヤホンも登場しています。
今後、周囲の環境を解析する技術が発展し、それに合わせてANCを適用することで、どんな環境でも快適に音楽を楽しめるようになると思います。また、デジタル信号処理やBluetooth ICの性能向上により、さらにANC精度を高められると思います。
目的意識を持ち、さらなる技術開発を行うことで、ユーザーのオーディオ体験をさらに向上させることができると信じています。
今後も引き続き、技術動向を見ながら製品開発を行っていきますので、ご期待ください。
<参考文献>
[1] 「新版 アクティブノイズコントロール, 日本音響学会 編, 西村 正治 著/ 宇佐川 毅 著/ 伊勢 史郎著/ 梶川 嘉延 著
[2] JEITA RC-8142A ノイズキャンセル型ヘッドホン及びイヤホン
[3] https://acoustics.jp/qanda/answer/196.html
ゆずからす